空港, 解説・コラム — 2021年3月12日 12:41 JST

「自分たちはもらっていい立場なのか」特集・航空関係者の3.11(終)仙台国際空港会社 片岡直人さん

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 東日本大震災から10年を迎えた3月11日、仙台空港では空港を運営する仙台国際空港会社や国内線を運航する航空会社の社員らが出発便を合同で見送り、震災発生時刻の午後2時46分を迎えると利用者や従業員が1分間の黙とうを捧げた。

仙台国際空港会社の片岡直人さん=21年2月19日 PHOTO: Tadayuki YOSHIKAWA/Aviation Wire

 航空関係者に東日本大震災当日の様子を聞く「特集・航空関係者の3.11」。最終回となる3回目は、仙台国際空港会社の航空営業部貨物営業グループで働く片岡直人さんに話を伺う。片岡さんは当時、仙台空港で航空貨物を扱う仙台エアカーゴターミナル(SACT、16年6月に仙台国際空港会社と合併)に務めていた。

 津波で流されてきた自動車から漏電して発火し、全焼したSACTの国際貨物棟の姿は、仙台空港が受けた被害の大きさを表わすものだった。震災直後に当時の建物は解体され、新たな国際貨物棟が建てられた。

 10年前の3月11日、片岡さんが税関の検査で取り扱い貨物の箱をばらしていた時に地震が起きた。津波がやってくると聞き同僚と旅客ターミナルへ避難したが、空港を運営する側の人間として躊躇(ちゅうちょ)することもあったという。

—記事の概要—
「自分たちはもらっていいのか」
ビル一棟まるごと片付け

「自分たちはもらっていいのか」

 税関職員とともに貨物の検査をしていた片岡さんが地震発生後、事務所に戻るとキャビネットが倒れるなど、室内にはあらゆるものが散乱していた。車へ走り、ラジオをつけて7メートルの津波が来ると知る。

東日本大震災で全焼したSACTの国際貨物棟=11年5月3日 PHOTO: Tadayuki YOSHIKAWA/Aviation Wire

避難した旅客ターミナルでは土産物店の食べ物が配られていた。「自分たちはもらっていい立場なのか」。片岡さんは受け取れなかった=21年2月19日 PHOTO: Tadayuki YOSHIKAWA/Aviation Wire

 「当時の建物は3階建てで、グランドハンドリング会社も貨物地区に事務所があるので、みんなで3階へ避難しました。100人くらいはいたと思います」。そして、津波で流されてきた自動車から発火したが、「消す術がなかったです」と片岡さんは話す。

 貨物地区の人々は、全員が旅客ターミナルへ避難した。「自衛隊がボートを用意してくれました。あたりは水浸しで、腰ぐらいまではぬれていました」。普段であれば歩いて5分ほどの距離だが、津波で状況は一変していた。

 旅客ターミナルへ着くと、空港会社などの判断で航空会社の社員が避難した人たちに土産物店で売っている食べ物を配っていた。近隣の住民をはじめ、老人ホームや障がい者施設の入居者も避難しており、従業員や乗客も合わせると旅客ターミナルへ避難した人は約1700人にのぼった。

 食べ物を配っている光景を目にした片岡さんは、「自分たちはもらっていい立場なのか」と同僚と話したという。「土産物店の食べ物を全員分配れるとは思えませんでした。この先どうなるかもわからず、空港の人間である以上、さすがにもらえませんでした」と、片岡さんたちは食べ物を受け取らずにいた。

 片岡さんは避難者の退避が始まった翌日、普段であれば車で30分ほどの自宅へ戻ることにしたが、津波で車が使えなくなったため、ヒッチハイクで送ってもらった。

ビル一棟まるごと片付け

 片岡さんが避難した自宅の電気が復旧したのは、発災から12日くらい過ぎてからで、空港へ戻れたのは2週間ほどたってからだった。JR常磐線も線路沿いの建物が傾いたところがあるなどで不通となり、自家用車が使えなくなった片岡さんは徒歩など別の方法を考えた。

13年6月に再建された仙台空港の国際貨物棟=21年3月10日 PHOTO: Tadayuki YOSHIKAWA/Aviation Wire

 「電話はつながりました。上司から歩きや自転車では会社に来るなと言われ、17万円の軽自動車を上司に見つけてもらい、買いました」と、通勤用の車を辛うじて手に入れることができた。

 職場であるSACTの国際貨物棟は、熱で使用不能になったという。「3階建てで、3階の下までは吹き抜けになっていました。パソコンは熱でねじ曲がっていました」。職場へ戻ると、火災による熱が建物内を破壊していた。

 片岡さんは、撤退した会社の事務所の片付けなどに追われた。「ビル一棟まるごと片付ける感じでしたね。うちでは国際線の貨物を扱っているのですが、試作品のように世界に一つしかないものもあります。『すぐ送ってくれ』と言われても、フォークリフトもなく、貨物を運ぶ車も手に入らない状況でした」と、さまざまなものが散乱した事務所の片付けと、預かっている貨物の対応に追われた。

 国際貨物棟が使えなくなったことから、倉庫の空き室にプレハブを建て、1年ほど事務所として使用した。主力施設が使えなくなり、解体費用も高額になることから、片岡さんは「会社がつぶれるのではと思ったほどです」と、当時を振り返る。

震災から10年がすぎた仙台空港。復旧工事が遅れていた空港周辺も整備が進む=21年3月10日 PHOTO: Tadayuki YOSHIKAWA/Aviation Wire

 空港では、4月13日の運航再開に向けて、米軍が復旧工事を進めていた。再開2日前の11日に任務を完了するまでに従事した隊員は、のべ3500人。「米軍がいなければ、ここまで早く再開できなかったと思います」と、米軍の存在が空港を早期に再開する上で大きかったと片岡さんは話す。

 しかし、当初は国内線のみだったため、片岡さんの会社で扱う貨物はあまりなかったという。発災から半年後の9月25日に旅客ターミナルが完全復旧し、同時に国際線も再開。全焼した国際貨物棟は2013年6月15日に再建し、現在も使われている。「再建から2年くらいで、やっと元通りになったという感じでした」と片岡さんは言う。国際貨物の扱い量が元通りになるまで、将来に不安を感じていた片岡さんの支えは、妻と2人の子供だったという。

 震災から10年が過ぎ、空港周辺で被害を受けたままだった道路なども徐々に整備されつつある。2016年6月1日の合併により、仙台空港会社の社員となった片岡さんは、「空港を人が集まる施設にしたいですね」と話していた。

(おわり)

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