2012年3月1日。国内初のLCC(低コスト航空会社)として、ピーチ・アビエーション(APJ/MM)は就航した。北朝鮮拉致被害者の帰国便など、全日本空輸(ANA/NH)で数々の重要フライトを担当したパイロットで、現在はピーチで副社長を務める角城健次さんは、就航準備に翻弄される日々を送り、やっと迎えた就航だった。
角城さんは就航前の2011年6月から、運航部長兼乗員課長としてピーチのパイロットたちをまとめ、2016年10月からは副社長と機長を兼務し、主に安全運航に関する分野を統括してきた。今年12月3日には、旅客機の機長として航空法上の定年となる68歳の誕生日を2日後に控え、ピーチの機長として最後のフライトを終えた。「副社長と安全統括管理者、機長の三足のわらじでしたが、一つ減りました」と、角城さんは安堵した表情を見せながら笑う。
「良いことよりも、どうしても悪いことのほうが記憶に残ります」。機長としてピーチで飛んだ7年間を、角城さんはこう話す。“悪いこと”は、就航から2年がすぎた2014年に起きた。パイロット不足により、2000便を超える計画欠航を同年春から秋にかけて余儀なくされたことだ。
角城さんは2014年3月の状況を振り返る。「まだ機長が40何人しかいないくらいなのに、8人が飛べなくなりました。テニスでけがをしたとか、腰痛とか。あの時は代わりに死ぬほど飛びました。香港を夜往復して、終わってから昼間にデスクワークをしたりね」と、計画欠航が始まる直前は、いつもにも増して空を飛びながら事務作業をこなすことになった。
「仕事は楽しいけど、悪い時のイメージが付いてまわりますね」と、安全対策に力を注いできた角城さんにとって、楽しい思い出よりもネガティブな出来事の方が強烈な記憶に残っていた。しかし、これだけ運航に情熱を注ぐ角城さんは、大学受験を迎える高校3年生まで、パイロットという職業を強く意識していたわけではなかったという。数々の特別フライトを担ったグレートキャプテンは、なぜパイロットを志したのか。
—記事の概要—
・航大9月に知るも7月締切だった
・「安全がなければ簡単に倒産」
*前編はこちら。
航大9月に知るも7月締切だった
角城さんは大阪府出身。伊丹空港へ向かう飛行機の姿を子供のころから見ていたため、小学生時代の作文では、パイロットになりたいと書いたこともあった。「プロ野球選手になりたいというのと一緒。是が非でもなりたい、というわけではなかったです。高校3年生になってどこを受けようか? となり、大学を卒業して何になるかを考えました。医者になるのかな、何になるのかな、とね」と、卒業後の職業を考えたことが、パイロットを目指すことにつながっていく。
「大学を紹介する本をみていたら、最後の方に航空大学校が載っていました。でも本を見たのは9月で、7月に募集は締め切られていたんです」と角城さんは笑う。翌年航大を受験し、卒業後はANAに入社した。
管理職になってしばらくすると、角城さんは皇室フライトなど、ANAが受託した特別なフライトを担当する部署「企画推進部」に配属された。技量や判断力を買われたパイロットが集まる
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