22年間に地球約1079周分を飛んだエア・ドゥ(ADO/HD)のボーイング767-300ER初号機(登録記号JA98AD、1クラス286席)が、ニューメキシコ州のロズウェル・インターナショナル・エアセンターへ現地時間27日(日本時間28日)に到着した。20日の札幌(新千歳)発羽田行きHD20便が商業運航のラストとなり、米国へのフェリーフライトは26日に羽田を出発。アンカレッジ経由でロズウェルへ向かった。
フェリーフライトのHD9051便には、機長2人と副操縦士1人のパイロット3人、整備士2人、社外のコーディネーターが搭乗。羽田のC滑走路(RWY34R)を離陸後は、青森県むつ市付近から本州を抜け、エア・ドゥ本社がある札幌市に近い北広島市付近、稚内市付近、樺太を経てアンカレッジへ立ち寄った。アンカレッジからは西海岸沿いに南下し、サンフランシスコ、ロサンゼルスを経てロズウェルに到着して最後のフライトを終えた。
最終区間となるアンカレッジから操縦の主担当を務めたのは、エア・ドゥで教官を務める大村大(おおむら・だい)機長。大村さんが同社に入社したのは2014年だが、米国でフライトしていた1998年にデリバリー前のJA98ADを目にしていた。その経験から、ロサンゼルスからロズウェルへ向かう際、22年前に羽田へフェリーされる際の出発地となったサンバーナーディーノ国際空港付近を飛ぶルートを選んだ。
大村さんは防衛大学校を卒業後、海上自衛隊に入隊した。訓練でサンディエゴの米海軍基地へ寄港した際、近くのサンディエゴ国際空港を定期便やプライベート機が区別なく自由に発着する姿を見て、パイロットになりたいという夢をかなえようと、退職を決意。そして渡米した。
—記事の概要—
・Nナンバーで「Hokkaido」
・最初と最後だけ一緒
・雪が降ると大変
Nナンバーで「Hokkaido」
エア・ドゥは1996年11月14日、「北海道国際航空」として札幌市内に設立。最初に導入したJA98ADは同社唯一の新造機で1998年3月27日に引渡され、同年6月24日に羽田空港へ到着した。訓練などに使用された後、同年12月20日に就航し、初便は羽田発札幌(新千歳)行きHD11便だった。当初はリース機だったが、2013年2月に購入して自社保有機になった。
大村さんは、1997年から2000年まで米国でセスナなどの小型機の教官や、エアタクシーのパイロットとして過ごしていた。自分の生徒をカリフォルニア州南部のサンタバーバラへ訓練飛行で連れていった際、後にJA98ADとなる機体を初めて見かける。
「確か茶色いハンガー(格納庫)に頭半分が入っていました。あまり大きな飛行機を見かけないところだったので、最初はNASA(航空宇宙局)の飛行機かな? と思ったんですよ」と、最初に見かけた印象を話す。
しかし、近くで機体をよく見てみると、機体のレジストレーションナンバーは米国籍の「N767AN」だが、胴体には「Hokkaido International Airlines」の文字が。
「北海道? これが日本で立ち上がった会社の飛行機か」と状況を飲み込めたそうだ。「当時はセスナやパイパーなどの3-4人乗りの小型機を操縦していたので、いつかこういう大きい飛行機に乗りたいなぁ、と思ったんです」と話す大村さんは、23年後にこの機体を最後に操縦するパイロットなるとは思いもよらなかった。
大村さんは当時、カリフォルニア州のレッドランズ空港を拠点に飛んでいたが、再び「Hokkaido」と描かれた767を目にする。サンタバーバラで目撃した後、レッドランズから14キロほどのところにあるサンバーナーディーノ国際空港にその姿があった。「この間の飛行機が止まっているな、としばらく見ていたのですが、いつの間にかいなくなってしまい、その後はすっかり忘れていました」と、ここで機体との接点はいったん途切れる。
最初と最後だけ一緒
大村さんは帰国後、日本の航空会社で767やエアバスA320型機に乗務。2014年にエア・ドゥへ入社した際は、すっかり米国で見かけた767のことは忘れていた。
N767ANが日本国籍機のJA98ADになったことも、入社当初は知らなかったという大村さんは、「(新興の航空会社が)新品の767を買うのは珍しいので、中古機だと勝手に思っていました。ところが半年ほど前にJA98AD退役の話が社内で出た際、『これがエア・ドゥの新造1号機なんだよ』と聞いて驚きました」と、普段乗務している機体が米国で「大きい飛行機に乗りたい」という目標を与えてくれた機体だったのだ。
「整備本部長に聞いたところ、1998年4月にサンタバーバラ、6月からサンバーナーディーノにいた記録がありました。そこで初めて知って、うれしくなりました」と笑顔を見せた。「最初と最後だけ一緒になるという、奇妙な縁ですよね」。
雪が降ると大変
JA98ADが退役するまで、エア・ドゥの767は航続距離延長型の767-300ERが4機(JA98AD、JA01H、JA612A、JA613A)と、767-300が2機(JA601A、JA602A)の計6機だった。3月には2000年7月10日就航の2号機(JA01HD、1クラス289席)も退役予定で、両機が退役後はすべて全日本空輸(ANA/NH)が運航していた機材となり、座席数も1クラス288席に統一される。
6機あった767のうち、JA98ADの特徴はどのようなものか。「JA98ADとJA01HDは、(地上と航空機間でデータ通信する)ACARS(エーカース)が付いていませんでした。エア・ドゥは雪が降る空港によく行きますが、刻々と変わるウェザー(天候)の情報を、無線で全部聞かないといけないんです。雪が降ると、ランウェイ(滑走路)のコンディションが刻々と変わるので大変でした」と、大村さんは説明する。
ACARSが付いていない点を除くと、機体によって差を感じるのはエンジンの違いくらいだったという。エア・ドゥの767のエンジンはGE製CF6-80C2だが、推力の違いで5万2500ポンドのCF6-80C2B2と、6万800ポンドのCF6-80C2B6の2種類あり、767-300ERの2機(JA612A、JA613A)以外はJA98ADも含めてCF6-80C2B2だった。
「2つのエンジンで違うのは着陸後のパワーカットくらいです」と、そこまで大きな違いではないという。一方で、大村さんがかつて乗務していたA320とは大きな差があり、設計思想の違いを感じていた。
「767は、セスナやパイパーと同じ感覚で飛ばせます。トリムを取るのも一緒です。A320はオートトリムで、自分でトリムを取ることはほとんどありません。上昇率は777よりもよく、スポーツカーみたいで操縦して楽しい機体です」と、パイロットが自分で飛ばしていることを体感できる機体と言える。
パイロットにとって操縦しがいのある767だが、エア・ドゥの就航地で運航が大変なところはあるのだろうか。「函館ですね。特に冬場は天候に左右されます。雪が降っていると、なかなか降りられない時もあります。空港がちょっと丘の上にあるので、ILSで降りても急にうわっっと持ち上げられることもあるんですよ」と、函館は腕の見せ所といえるようだ。
「夢がかなった不思議な縁」
JA98ADにとって、最後のフライトとなるアンカレッジからロズウェルまでは、乗務する3人のパイロットの中で、大村さんが運航責任者である「PIC(Pilot In Command)」としてコックピット左席の操縦桿を握った。
飛行ルートは、JA98ADが羽田へフェリーされる際に出発地となった、サンバーナーディーノ上空を通るルートを選んだ。サンバーナーディーノを出発したJA98ADは、アンカレッジ経由で羽田へ到着したが、23年後のラストフライトもほぼ同じルートをたどることになった。
「本当はもう少し内陸を通るルートだったのですが、ロサンゼルス経由に変えてもらい、サンバーナーディーノの上を飛ぶことにしました。飛び始めた地を見ながら行くのもいいんじゃないかと思い、多少遠回りになりますが会社にお願いしました」。エア・ドゥの別の退役機ではサンバーナーディーノが最終目的地だった機体もあり、できれば最初と最後を同じ地にしたかったという。
一人のパイロットに大きな夢を与え、そのパイロットがラストフライトを担うことになったJA98AD。大村さんは「ある意味、夢がかなった不思議な縁です」と振り返った。しかし、幸運が偶然転がり込んできたわけではないだろう。
ある機長経験者はこう言う。「幸せをつかみ取るには3つ必要だ。チャンスに気づくこと、努力すること、勇気を出すことだ」。大村さんも、今回の経験からパイロットを目指す人たちにこう語りかけている。「向いてきた幸運をきちんとつかめるよう、自分で常に準備をしておかなければなりません。そこは私もしたつもりです」。
努力した者は必ず報われる。JA98ADはそのことを教えてくれた。
関連リンク
エア・ドゥ
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