2002年10月に、北朝鮮拉致被害者5人が帰国する際の特別機など、全日本空輸(ANA/NH)で数々の重要フライトを担当し、現在はピーチ・アビエーション(APJ/MM)で副社長を務める角城健次機長が、48年間におよぶパイロット人生の区切りを12月3日に迎えた。航空法により、旅客機の機長としては定年を迎える68歳の誕生日を2日後に控えたこの日、角城さんは関西発宮崎行きMM189便と折り返しの宮崎発関西行きMM190便に乗務し、ラストフライトのMM190便には妻の邦子さんも乗客として搭乗し、関空へ向かった。
大阪府出身の角城さんは、国の航空大学校を卒業後、ANAに1974年4月入社。戦後初の国産旅客機である日本航空機製造YS-11型機や、ボーイング727型機、737、767、777に乗務し、2011年6月からは同じくANAホールディングス(ANAHD、9202)傘下で就航前のピーチに運航部長兼乗員課長として転じつつ、エアバスA320型機を機長として操縦した。
2012年7月から取締役として安全統括管理者と運航部長、2016年10月からは副社長として、主に安全運航に携わってきた角城さん。しかし、年齢を考え、一度はピーチ行きを断っていた。一定以上の大きさの民間機は、操縦資格(ライセンス)が機種ごとに異なり、試験に合格しなければならない。ボーイング機を乗り継いできた角城さんにとって、初のエアバス機への移行はかなりの負担だ。
当時角城さんは大阪乗務センターの所長で、ピーチに適した人材を思案していた。
「2011年3月、A320のライセンスを持ってなかった。当時のANAは54歳以上は機種移行せず、定年まで飛び続けていました。年齢を考えると自分は蚊帳の外で、A君がいいかな、B君もいいな、と考えていました。ところが上司から『角城、おまえ行け』と言われましてね。59歳6カ月。しかもA320(のライセンスを)持ってない(笑)。一度は断りましたが、2週間後に上司である本部長から『今から取ればいい』と言われ、決心しました」と、世話になった上司の説得に応じた。
「あの人に言われて引き受けましたが、今日現在はいい仕事をもらったと思っています。ほかの本部長だったら断っていたかもしれません」と、静かに振り返った。
—記事の概要—
・井上CEO「希望の光が差し込んだ」
・初便は部下に
井上CEO「希望の光が差し込んだ」
「角さんと言えばこのえびす顔。いつもにこやかにされているので、すごい方だと思っていない人もいるかもしれない(笑)。あの角さんがピーチに来ていただけると聞いた時の喜びようは、誰にも言っていないけど、ものすごくありがたかった。大きな期待と不安の中、希望の光が差し込んだ」
同じくANA出身の井上慎一CEO(最高経営責任者)は、ラストフライトを終え、オフィスに戻ってきた“角さん”こと角城さんが、運航部長として着任すると知った時の気持ちを、出迎えた社員にこう話した。
今では関西を代表する企業とも言えるポジションに立つピーチ
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